執事 福田貴宏
前回からのつづき
寿命を減らされないようにするためには、三尸をどうにかしなくてはなりません。とはいっても敵は自分の体の中にいる3匹の虫、捕まえようにも、追い出そうにも、いったい体のどこにいるのかさえ見当がつきません。わかっているのは60日に1回くる庚申の日の夜、眠っている間に体から抜け出して天帝に報告しに行くことだけです。
やはり阻止する方法はないのか・・・。いや、一つだけ方法があります。それは、この日は眠らない、です。眠らなければ、当然体から抜け出すことはできないはずです。すると三尸は天帝まで行けないし、報告することもできなくなります。つまり、寿命を減らされることはない、ことになります。というわけで、1年に5~6回ある庚申の日の夜中は、みんなが集い神仏を飾り粛々と日の出まで励ましあい起きている、「庚申講」と呼ばれる行事が始まりました。
庚申講は、平安時代ころ日本に伝えられました。室町時代から貴族皇族たちからじわじわ広がり始め、地域ごとグループごとなどに分かれて、お茶やお酒を飲みながら唄や俳句などを楽しんで夜を過ごしていたとされます。江戸時代には庶民にも根付きました。しかしその様子は、まるで夜中の大宴会のようであったといわれています。たくさんの食べ物やお酒を持ち寄り、大盛り上がりで一晩を過ごしました。ずいぶん方向性が変わってしまいましたが、起きていることには変わりありません。こうして庚申講は60日に1回のイベントとなり、庚申待ち、お庚申、守(まもり)庚申とも呼ばれ、長く受け継がれていったのです。
そんなイベントである庚申講が行われた証として、今度は記念碑が建てられるようになります。それが庚申塔です。地域あるいはグループごとに建てられるので、その数は膨大になっています。その形はさまざまですが、石塔や石版が圧倒的に多く見られます。正面に彫られているものは、庚申塔と書かれた文字だけのものや、庚申の申の字は干支で申年にあたるため、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫られたものも多くあります。神道の信者が多い地域では猿田彦神などが彫られ、仏教信者の多い地域では、庚申の本尊とされる青面金剛が彫られました。
明治時代になると、庚申信仰は迷信と位置付けられ、庚申講も行われなくなってゆきます。庚申塔も道路の拡張や土地開発のため、余儀なく撤去や移転されてゆきました。田舎や路地などに置かれていたため撤去を免れたものもありますが、残存する庚申塔の多くは、寺社の境内や私有地に移転されたものも含め、住民たちの手によって守られたことがもっとも大きな要因です。現在でも地名、駅名、道路名、バス停名、交差点名などでも庚申を使った名前が多く残っており、信仰の深さを窺い知ることができます。庚申塔はまさに、仲間の絆を示す大事なシンボルであったに違いありません。
前住職 佐山拓郎(第40世 平成26年~令和3年)
昭和のある年の秋彼岸、東京下町の小さなお寺で生まれる。
前職はサラリーマン。縁あって目黒の羅漢寺の住職となる。
執事 福田 貴宏
現住職 無垢品 宗生(第40世 令和3年 晋山)
縁を大切にしたいと人気声優と手紙のやりとりを続け、
今年の1月には彼らが司会を務めるラジオ番組にも出演する。
執事 堀 研心