住職 佐山拓郎
法話コラム ウグイス谷から 住職 佐山拓郎
おかげ様で、お寺の取材をしていただくことが増えた。先日はラジオに電話で出演し、らかんさんの由来などについて、お話させていただいた。
放送五百回記念にちなみ、「五百」にまつわる関係者から話を聞くという企画で、五百羅漢寺の住職である私以外にも、五百色の色鉛筆を作った方や、500系新幹線に詳しい方など、何人かの識者が登場した。
私の出演部分はつつがなく(たぶん)終了したのだが、その後に、五百円玉のプロとして登場した方の名前を見て驚いた。なんと、私の小学校の同級生だったのだ。その本人とは連絡がとれなかったが、何人かの同級生に裏をとり、放送でも少し触れさせていただいた。
昨年は、「ぶっちゃけ寺」で、同じく同級生と間接的に共演することができたが、今回はお寺がテーマでもない、通常のラジオ番組で、こういった縁があり、感動した。
この縁には、私が4年前から始めた、「SNS」が絡んでいる。お寺の宣伝も兼ねて始めたのだが、小学校時代の仲間たちが、SNS内で交流しているのを見つけ、そのグループにまぜてもらったのだ。
そこで、今回の共演者とは直接繋がっていないものの、大半の元クラスメイトと繋がる事ができた。卒業して三十年ほど経つが、パソコンやスマホを通じて、そのページを訪ねると、あの頃のクラスに居るような感覚が味わえる。SNSとは、本来、こういった使い方が想定されていたのではないだろうか。
ところが、座間市の事件のように、SNSが絡んだ悲しい出来事も多い。匿名性の高いSNSでは、人の持っている攻撃性が前面に出てしまう、という意見もある。
「だから、すべてのSNSは実名で行うことを義務付けろ」という人もいる。が、あの事件の被害者たちは、「匿名」で投稿することで、本来は「救い」を求めていたのではないだろうか。「死」という道ではなく、「生きる」という道の救いを。
「救われたい」という気持ちを吐き出すのに、誰かに面と向かって相談するのは恥ずかしくても、匿名ならできるかもしれない。その際に、SNSというツールは、重要な相談窓口にもなり得るのだ。
「死にたい」という言葉の裏には「死にたい(ほどつらい)」という、助けを求める声が隠れている。お寺は、そういった人たちを受け入れられる状況を作り続けなければならない。お寺は地域のコミュニティでもあるが、これからは、インターネット上でも「駆け込み寺」である事が求められてくる。
まずはSNSを健全に使いこなしていく事から。私は早速、同級生との共演を肴に、忘年会を企画したいと思う(違うか)。
前住職 佐山拓郎(第40世 平成26年~令和3年)
昭和のある年の秋彼岸、東京下町の小さなお寺で生まれる。
前職はサラリーマン。縁あって目黒の羅漢寺の住職となる。
執事 福田 貴宏
現住職 無垢品 宗生(第40世 令和3年 晋山)
縁を大切にしたいと人気声優と手紙のやりとりを続け、
今年の1月には彼らが司会を務めるラジオ番組にも出演する。
執事 堀 研心