執事 堀研心
前回からの続き
高橋由一は「螺旋展画閣」という「らせん状の美術館」構想を持っていました。
高橋 由一の「螺旋展画閣(らせんてんがかく)」
高橋 由一(たかはし ゆいち)。近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいましたが、高橋由一は、本格的な油絵技法を習得し、江戸後末期から明治中頃まで活躍した、「日本で最初の洋画家」といわれています。高橋由一の「鮭」の絵を知らない人はいないでしょう。佐野藩・藩士の子として、江戸大手門前の藩邸で生まれた由一は、幼いころから絵の才能を発揮し、狩野派の絵を学びます。後に西洋製の石版画に接し、日本や中国の絵とは全く異なる描写に強い衝撃を受けました。以後、洋画家の道を進みました。
由一は、明治14年(1881)に「螺旋展画閣」という美術館建設を構想します。この「螺旋展画閣」構想は実現しませんでしたが、たった2枚の立面図と主意書が残されました。螺旋展画閣は、二重らせん構造の六階建ての楼閣で、右回りに廻って、屋上(六階)の展望台に出ることができ、同じ道を通ることなく一階まで降りられます。この構造は、右繞三匝堂と同じです。この螺旋展画閣は、五百羅漢寺の右繞三匝堂の影響によって構想されたことが、すでに明らかになっています。
高橋由一「鮭」
螺旋展画閣
大阪市立大学大学院 田中昭臣氏、同大学専任講師 中谷礼仁氏は「『螺旋展画閣』の内部空間に関する一考察」の中で、螺旋展画閣の内部の構造を考察し、由一の螺旋展画閣は、五百羅漢寺の右繞三匝堂の影響によって構想されたことを明らかにし、「自然を被う『懸造り』、それをさらに被った『三匝堂』、その観覧形式を継承し中空になったものが『螺旋展画閣』であると考えられる。そして、『螺旋展画閣』は本所羅漢寺三匝堂の流れを汲んでいると考えられる」と述べています。
また、螺旋展画閣の展示形式について、次のよう述べています。
「『螺旋展画閣』が構想された時代は『美術』概念自体が導入されたばかりのころであり、近世の観覧方式の影響を考慮する必要がある。(中略)三匝堂において仏像が配置された内側の建物は、その機能を失い、観覧方式のみが『螺旋展画閣』に継承されたと考えることが出来る。」
なぜ、由一は、螺旋の建物にこだわったのでしょうか。続く。
前住職 佐山拓郎(第40世 平成26年~令和3年)
昭和のある年の秋彼岸、東京下町の小さなお寺で生まれる。
前職はサラリーマン。縁あって目黒の羅漢寺の住職となる。
執事 福田 貴宏
現住職 無垢品 宗生(第40世 令和3年 晋山)
縁を大切にしたいと人気声優と手紙のやりとりを続け、
今年の1月には彼らが司会を務めるラジオ番組にも出演する。
執事 堀 研心