西 暦 |
年 号 |
五百羅漢寺 関係事項 |
1630 |
寛永 7 |
鉄眼、肥後国下益郡守山に生まれる。 |
1644 |
正保 1 |
宝洲、豊後国臼杵に生まれる。 |
1648 |
慶安 1 |
松雲(俗名九兵衛)、京都に生まれる。 |
1661 |
寛文 1 |
宝洲、鉄眼の弟子となる。 |
1664 |
寛文 4 |
鉄眼、一切経刻蔵の発願を公慶に話す。 |
1669 |
寛文 9 |
鉄眼、隠元に一切経刻蔵の発願を話し、明蔵一切経と黄檗山内の土地を与えられる。 |
1670 |
寛文 10 |
鉄眼、難波瑞竜寺住持となる。松雲(23)鉄眼に入門。 |
1675 |
延宝 3 |
松雲、瑞竜寺で薬師如来・十二神将像を刻す。 |
1681 |
天和 1 |
鉄眼の一切経6956巻の飜刻完成。 |
1682 |
天和 2 |
鉄眼、大阪にて連日飢民に施米する。鉄眼(53)示寂。 |
1687 |
貞享 4 |
松雲、五百羅漢像造立を志願し江戸に下る。 |
1691 |
元禄 4 |
松雲、羅漢像第1号を彫る。 |
1692 |
元禄 5 |
蔵前の16人の富豪、松雲の彫像のため、浅草寺寿命院境内に仮屋を建立。 |
1693 |
元禄 6 |
正月、羅漢像50体できる。丈六釈迦像彫造に着手。 |
1694 |
元禄 7 |
桂昌院、公金を下賜し10尊を彫営する。以後施財日々に多く、3~5年の間に松雲の願いほとんど成る。 |
1695 |
元禄 8 |
松雲の五百羅漢像、公聴に達す。本所五の橋の南に土地を賜わる。
黄檗高泉を迎えて点眼供養し天恩山羅漢寺と号す。 黄檗山末となる。 |
1696 |
元禄 9 |
天恩山羅漢寺開創円満供養法会を営み、宝洲説法す。
牧野成貞内室高祥院、梵鐘を鋳して納める。仮堂前に石燈籠据えられる。 |
1700 |
元禄 13 |
五百羅漢像はほとんど完成。 |
1710 |
宝永 7 |
松雲(63)寂。 |
1713 |
正徳 3 |
寺社奉行本多弾正、羅漢寺を宝洲に預ける。
本山の撰により象先、羅漢寺住持となる。 |
1717 |
享保 2 |
象先、市中勤化の許可を得て、堂宇建立のため行乞をはじめる。 |
1719 |
享保 4 |
宝洲(76)寂。 |
1720 |
享保 5 |
西羅漢堂建つ(伽藍第1号)。庚申塔建つ。 |
1721 |
享保 6 |
大殿建立の許可あり、象先都下を行乞す。 |
1724 |
享保 9 |
吉宗、遊獵の折からはじめて羅漢寺に渡る。銀子下賜。 |
1725 |
享保 10 |
大雄殿成る。入仏供養を行なう。東羅漢堂建立の許可下りる。
常夜燈、禅堂、庫裡建つ。 |
1726 |
享保 11 |
東羅漢堂上梁、入仏供養を営む。 |
1727 |
享保 12 |
方丈、表門建つ。鐘桜を東羅漢堂の東南に移す。 |
1728 |
享保 13 |
大雄殿前左右に刹竿旗を建てる。大雄殿正面左右に銅燈籠建てられる。 |
1729 |
享保 13 |
盂蘭盆の大施餓鬼会を修行す。 |
1730 |
享保 15 |
吉宗晩課聴聞、銀子10枚下賜。 |
1731 |
享保 16 |
家重晩課聴聞、銀子5枚下賜。天王殿建つ。 |
1733 |
享保 18 |
象先、東堂に退隠し栄朝四代住持となる。 |
1734 |
享保 19 |
吉宗、寺地狭隘なるを見、土地を下賜する旨の言あり。
土地3000坪、民田1500坪を合し、寺地6000坪となる。 |
1735 |
享保 20 |
腰掛石の地形でき、吉宗来駕、行水をする。腰掛石、茶屋完成。 |
1738 |
元文 3 |
吉宗、来駕し禅堂で坐禅を見る。銀子10枚下賜。 |
1739 |
元文 4 |
吉宗、寺内に藤棚を造らせる。結制米500俵拝領。 |
1741 |
寛保 1 |
吉宗、上堂を仰付け上覧、銀子3枚、翌日10枚下賜。百観音堂を建てる。 |
1742 |
寛保 2 |
開基松雲元慶禅師之塔建つ(銘、栄朝記す) |
1747 |
寛保 4 |
石燈籠2基、天王殿の前に建つ。 |
1749 |
寛延 2 |
中興象先(73)示寂。三代象先歴代大和尚之塔建つ。 |
1755 |
宝暦 5 |
法華供養塔建つ。 |
1759 |
宝暦 9 |
仮門の場所に表門(四つ足門)を建てる。 |
1767 |
明和 4 |
表門修復す。 |
1770 |
明和 7 |
大乗妙典奉納供養塔建つ。 |
1772 |
安永 1 |
栄朝示寂。 |
1774 |
安永 3 |
梵鐘改鋳される。 |
1780 |
安永 9 |
三匝堂建つ。百観音安置供養を修す。 |
1782 |
天明 2 |
法華塔建つ。 |
1783 |
天明 3 |
僧耆山詩碑建つ。 |
1791 |
寛政 3 |
表門修復。合会石塔建つ。 |
1799 |
寛政 11 |
法華供養塔建つ。 |
1824 |
文政 7 |
開山堂を方丈の東から大雄殿の西北に移し、渡り廊下を架ける。 |
1829 |
文政 12 |
羅漢寺大破、寺社奉行松平丹波守の許可を得て武州摂津2カ国で勧化。 |
1833 |
天保 4 |
三匝堂修復成る。観音像を遷す。 |
1846 |
弘化 3 |
長雨のため本所北割下水辺出水、羅漢寺被害甚大。 |
1855 |
安政 2 |
江戸大地震、本堂、三匝堂大破し、東西羅漢堂、天王殿倒壊す。 |
1856 |
安政 3 |
暴風雨と高潮で潰滅的打撃をうける。 |
1866 |
慶応 2 |
河口定次郎(のちの慧海)堺に生まれる。 |
1874 |
明治 7 |
羅漢寺境内、共同墓地となる。 |
1875 |
明治 8 |
三匝堂取り潰され、百観音像とともに売却される。 |
1887 |
明治 20 |
認許を得て本所区緑町四丁目三一番地に移転、仮堂宇を建立す。 |
1890 |
明治 23 |
河口定治郎、羅漢寺住職海野希禅から得度を受け慧海仁広の名を貰う。
慧海、羅漢寺住職となる。 |
1891 |
明治 24 |
慧海、僧籍を返上して住職辞意、後に改めて僧籍を取る。 |
1893 |
明治 26 |
安藤 照(のちの妙照)、「お鯉」の名で新橋照近江から雛妓に出る。 |
1897 |
明治 30 |
羅漢寺再建につき内務省、安田善次郎、本山より各100円の寄付あり。
慧海チベットへ発つ。 |
1900 |
明治 33 |
東京都府知事より、16655円82銭8厘の募金許可下りる。 |
1908 |
明治 41 |
「大日本名所図会」によると明治初年、内務省に届けられた仏像460体が、この頃には370体程度しか残っていなかったという。
東京荏原郡目黒町大字下目黒六八一に移転する。 |
1917 |
大正 6 |
大暴風雨により羅漢寺大破。 |
1923 |
大正 12 |
関東大震災で羅漢寺大破。 |
1926 |
大正 15 |
「お鯉物語」大阪朝日新聞夕刊に連載。 |
1937 |
昭和 12 |
妙照、羅漢寺の零落ぶりを目のあたりにし、再建を発願する。 |
1938 |
昭和 13 |
妙照、羅漢寺住職となる。 |
1940 |
昭和 15 |
小久江慈雲(俗名茂・妙照の義妹)剃髪得度。
妙照、慈雲、中国に渡り、中支から北支にかけて前線の将兵の慰問をする。 |
1941 |
昭和 16 |
妙照、慈雲帰国。慈雲のみ再度渡航。上海海軍基地に塔婆第一号を建立。 |
1945 |
昭和 20 |
広島に世界最初の原爆投下、移動劇団桜隊丸山定夫ら9名被爆。
慧海(80)歿。 |
1946 |
昭和 21 |
羅漢寺、東京都より史蹟指定をうける。 |
1948 |
昭和 23 |
禅宗羅漢寺派として独立分派。 |
1951 |
昭和 26 |
日比谷公会堂で万国戦歿者慰霊大会が行なわれ羅漢寺の梵鐘が鳴らされる。 |
1952 |
昭和 27 |
徳川夢声「新作・お鯉物語」を発表。
武蔵野民俗展で、東横が出品した仏像が松雲作・五百羅漢像11体と判明。
徳川夢声らにより境内に原爆殉難碑建つ。 |
1953 |
昭和 28 |
平山蘆江歌碑建つ。魚鳥供養行われる。 |
1954 |
昭和 29 |
読売新聞主催・秘宝名品展(高島屋)に獏王像出品。高浜虚子句碑建つ。 |
1958 |
昭和 33 |
金子妙雲、住職、福田ふく(照雲)副住職となる。興安友愛の碑建つ。 |
1960 |
昭和 35 |
原爆殉難者慰霊祭。平和の鐘10周年記念祭。 |
1970 |
昭和 45 |
釈迦如来、五百羅漢など294体の尊像、重要文化財に指定。
東急不動産より五百羅漢像11体返還され、重要文化財に追加指定。 |
1972 |
昭和 47 |
庖魂の碑建つ。 |
1981 |
昭和 56 |
代表役員 日髙宗敏就任。
五百羅漢寺貫主 日髙宗敏により現在の堂塔落成。竣工式。
第39世 斉藤晃道晋山式。落慶大法要。 |
1996 |
平成 8 |
阿弥陀堂落慶。入仏供養を営む。 |
1998 |
平成 10 |
羅漢会館落成。 |
2011 |
平成 23 |
代表役員 日髙秀敏就任。 |
2014 |
平成 26 |
第40世 佐山拓郎晋山。 |
2020 |
令和 2 |
五百羅漢寺 貫主 日髙宗敏逝去。 |
2021 |
令和 3 |
第41世 無垢品宗生晋山。 |