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仏教手習い草紙

執事 福田貴宏

VOL.127 生死一如(しょうじいちにょ)

仏教には「生死一如」ということばがあります。生死は一つのごとし、生きるということはいつか死ぬ、死ぬということはそれまで生きている、生と死は切り離すことはできない、よって生死は1つである、という意味です。なんとなく表裏一体ということばにも似ているような感じですが、生と死を使っているところに、もう少し深い意味がかくされているようです。

生と死、もしどちらか片方だけだったとしたらどうなるのでしょうか。もし「生」が無かったら・・・死が残りますが、これは考えても仕方ありませんね。生まれていないのですから。では反対に「死」というものが無かったら・・・誰もが一度は夢見る不死の世界、そういえばマンガの「火の鳥」や「銀河鉄道999」も、不老不死が物語の背景にあったのを思い出します。

「死」がない世界、つまり人生が無限となったとき、どんなことが起こるでしょう。まず、人間が生きてゆく上で必要とされる衣食住は、重要ではなくなってきます。着なくても食べなくても家がなくても、死ぬことはないからです。衣食住が必要ないなら、お金もそんなに必要ありません。そうなると働くこともやめてしまいます。働く人がいなくなると、物を作る人がいないのでいろんなものが不足してゆきます。物が無くなれば、やることも無くなります。ボ~~っと1日1日が過ぎていきます。そんな生活の中で、もし不治の病に冒されたとしても心配ありません。治らないけど死ぬことはありません。あるいは災害や事故で大ケガをしても、北極で氷漬けになっても、砂漠の真ん中で倒れても、海の真ん中で溺れても、小さな縦穴にはまってまったく身動きがとれなくても、苦しいですが死ぬことはありません。いや、死ぬことはできません。こう考えると死の無い世界は、まるで楽園のように考えてしまいがちですが、実はただ時間だけがいたずらに過ぎる、ある意味「生き地獄」となるかもしれません。

死は怖いものです。誰もが死にたくないと思います。しかし死があるからこそ、私たちは懸命に生きようと努力できるのです。死は遅かれ早かれ100%確実にくる未来です。ならば死を見つめ、死を考え、そして死の準備をすべきです。準備していれば、思いっきり生を楽しみ活かすことができるはずです。死に生かされている自分に気づき、死を受け入れ一生懸命生きる、これが生死一如にかくされた意味なのです。

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住職 佐山拓郎(平成26年 普山 第40世)

昭和のある年の秋彼岸、東京下町の小さなお寺で生まれる。
前職はサラリーマン。縁あって目黒の羅漢寺の住職となる。

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縁を大切にしたいと人気声優と手紙のやりとりを続け、
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