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 仏教手習い草紙Vol,117   福田(ふくでん)

 私の名字と同じなので、いつか書こうと思っていた題材です。私は「ふくだ」ですが、仏教語だと「ふくでん」と読みます。幸福の田んぼ、と考えるのは少し早合点。福祉や医療関係にも影響を残していることばです。

 福田というからには、やはり田んぼが関係しています。作物を得るには、田畑に種や苗を植え、雑草を刈り取り、肥料をあげて育てていき収穫します。これをお釈迦さまは、仏の教えにたとえました。信心という種を蒔き、煩悩という雑草を刈り取り、善行や布施という肥やしで育てると、福徳が得られる、と教えたのです。米を生み出す田んぼように、福徳を生む田、敬って供養や施しをすれば福徳を生み出すこと、あるいはその対象を「福田」といいます。

 経典では、福田を敬田(きょうでん)、恩田(おんでん)、悲田(ひでん)の三つが説かれています。
 「敬田」は、敬うことです。敬うべき対象は仏教の三宝である仏・法・僧が基本ですが、それだけでなく身近な人の中にも敬うべき人がいるはずです。
 「恩田」は、ご恩に感謝することです。生んでくれた父母、ご先祖さまは当然のごとく、人は皆、生きているだけでも、たくさんのご恩を受けているはずです。
 「悲田」は、慈悲をかけることです。病人や老人、貧困者、被害に遭った人、困っている人たち、助けが必要な人等々たくさんいるはずです。経典では、この悲田が最も重要だとされています。

 福田の教えは、日本に仏教が伝わった当初から、中心的教訓となっています。聖徳太子が四天王寺を建立するにあたり、境内を4区分し、お寺本体の敬田院、薬局にあたる施薬院、病院にあたる療病院、そして孤児、難民、身寄りのない老人などを受け入れる救護施設の悲田院をそれぞれ設置しました。そのころの仏教は、医療や福祉も一緒だったことがわかります。現在では切り離されていますが、看護や介護、社会福祉などの理念に、今でも「福田思想」を根本にしているところが多数あります。

 最後に余談ですが、お坊さんが身に着ける袈裟(けさ)の別名を、「福田衣(ふくでんえ)」といいます。袈裟はもともと、使われなくなったボロキレを四角に切り、それをいくつもつなぎ合わせて作られました。そのため大小の田の字がたくさん並んでいるように見えるのと、仏教者として福田思想を身にまとう意味からこう呼ばれます。現在の袈裟は、生地も新品で、金ピカだったり、豪華な刺繍が施されていたりしますが、その名残を受け継いで、よ-く見ると1枚ではなく何枚かの生地をつなぎ合わせて作られています。


 仏教手習い草紙Vol,116   禅宗3(ぜんしゅう)

 前回前々回に引き続き禅宗のお話です。

 「禅」の語源は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」が禅那(ぜんな)、駄衍那(だえんな)、持阿那(じあな)などと中国語に音写され、さらに略されて「禅」になったと考えられています。静かに考える、という意味をもち、思惟修(しゆいしゅう)、静慮(じょうりょ)、瞑想(めいそう)などに意訳されています。

 仏教では、全ての人が例外なく、自身の中に「仏の種」をもっているとしています。それを仏性(ぶっしょう)といいます。仏の種を育てるには、修行するしかありません。その修行を、禅によって行うのが禅宗です。

 禅は瞑想と訳されていますが、仏教でいうところの禅は、瞑想の先に入ることのできる心の境地です。「定(じょう)」あるいは「禅定(ぜんじょう)」といい、無であって無でない境地、想わないが想わないことも想わない境地、何事にもとらわれない安定した境地、などと紹介することがあるようですが・・・???むずかしいですね。その境地になるための修行といえば、やはり坐禅です。お釈迦さまも悟りを開いたとき、菩提樹の木の下で坐禅を行い、最初は欲や魔と戦いましたが、最終的にこの境地に入っていたとされます。よって禅宗の修行は、坐禅が基本となります。

 ちなみに 座禅ではなく坐禅です。「座」という字は座布団や座席など座る場所を意味していて、「坐」は座る行動を意味しています。しかし坐は常用漢字ではないので、今日では座禅でも正解になってしまいますが、本来は坐禅です。

 また禅宗では、「不立文字」を基本的教訓にしているため、特定した経典はありません。それについて、漬物の「たくあん」で有名な沢庵和尚は、

 「水のことを言葉で説明されて、果たして水を理解することができるであろうか。
  火のことを説明されて火を理解することができるであろうか。
  実際には濡れないし、実際には熱くならない。
  本当の水、本物の火に直に触ってみなければ、
  はっきりと理解することができないのと同様」。

 なるほど、文字や言葉では限界があることがわかります。また時代によって、人によって、場所によって、解釈によって変化してしまうという可能性がある以上、文字や言葉で表すことはできないことになります。といっても、まったく文字や言葉を使わない、という意味ではありません。知識は必要ですし、その時代その人その場所に合った方法で、導いてゆくことは大切であるとしています。


 仏教手習い草紙Vol,115   禅宗2(ぜんしゅう)

 前回の続きで禅宗の歴史ですが、禅宗は520年頃、南インドから布教のため、中国へきた一人の僧によって開かれました。名前は菩提達磨(ぼだいだるま)といいます。そう、あのダルマさんです。達磨大師が禅宗の祖師となります。

 禅宗ということばは、後でつけられたことばで、もともと中国では仏心(ぶっしん)宗、あるいは達磨宗といいます。達磨大師より二祖、三祖、四祖、五祖へと受け継がれてゆきましたが、六祖をめぐる対立があり南と北に分かれます。勢力を伸ばしたのは南側で、曹洞宗、雲門(うんもん)宗、法眼(ほうげん)宗、潙仰(いぎょう)宗、臨済宗を生み出し、さらに臨済宗から黄龍(おうりゅう)派と楊岐(ようき)派に分かれます。ここで五家七派と呼ばれ中国禅宗の全盛期をむかえます。

 しかしその後は、中国の国教がチベット仏教や道教へと移るなど、仏教自体が衰退してゆきます。達磨大師の教えを強く継いでいた臨済宗と曹洞宗は、最後のほうまで残ったのですが、仏教弾圧もあり、ついには消滅してゆくこととなります。

 日本の禅宗は、鎌倉時代初めに中国から帰った栄西(ようさい)が、臨済宗を伝えたことにより始まります。それ以前にも、中国から禅僧が来て講義したり、日本僧らによって日本達磨宗と名乗った記録はありますが、いずれも大規模になることはありませんでした。

 天台宗の僧である栄西は、中国に渡って臨済宗黄龍派の禅を学びました。1191年に帰国し、博多に日本最初の禅寺・聖福寺(しょうふくじ)を創建、その後、本拠地を幕府のある鎌倉に移し、本格的な臨済禅の布教を始めました。幕府の援助もあり、武士庶民を中心に広まってゆくとともに、すぐれた僧たちを輩出、結果たくさんの派に分かれています。

 次に道元(どうげん)も天台僧でしたが、禅に興味を持ち栄西を訪れて勉強します。その後中国に渡り、曹洞宗で坐禅を中心に学んだ後、1227年に帰国しました。俗や権力をきらった道元は、人里離れた場所に禅の修行道場となる永平寺を建立、曹洞宗(そうとうしゅう)を開きました。

 3つめに黄檗宗ですが、1654年に隠元(いんげん)が中国より来日して開いた宗派です。隠元はもともと臨済宗楊岐派だったため、臨済宗と名乗りたかったのですが、すでに日本にあったため、自身が黄檗山万福寺にいたことから臨済正宗黄檗派と称しました。ずっと臨済宗の一派でしたが、明治9年に黄檗宗と改め、臨済宗から独立しています。

 もうひとつ、法燈(ほうとう)国師が中国に渡り、規模の小さかった普化宗(ふけしゅう)で学んだ後、1254年に帰国して普化宗を開きました。尺八を吹きながら旅してゆく、虚無僧(こむそう)が印象的な宗です。しかし江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって新政府により解散させられ、臨済宗に編入という形になりました。現在は存在していません。


 仏教手習い草紙Vol,114   禅宗1(ぜんしゅう)

 「五百羅漢寺は禅宗ですか?」

 日本には禅宗という「宗」は存在しません。中国にもありません。禅宗とは、禅の教えを根本にした宗があり、それらを総称したことばです。日本では臨済宗(りんざいしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)、黄檗宗(おうばくしゅう)の3つだけが禅宗です。

 禅宗という宗はないし、さらに普通なら「何宗ですか?」と尋ねられることがほとんどですが、その人はわざわざ「禅宗ですか?」と聞いてきます。実はこの人、かなりの仏教知識をもった方と判断してまず間違いありません。確かに五百羅漢寺には、禅宗でしか見られない特徴がところどころにあります。しかしそれらに気付いた観察力と、それが禅宗のものであるいう知識があって、初めて「禅宗ですか?」と質問できるのです。そうです、五百羅漢寺はもともと、黄檗宗に属していた禅宗のお寺でした。

 本堂の釈迦三尊像は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という題名があり、禅宗であることがわかる最大の特徴といえます。「拈華微笑」正確には「世尊拈華、迦葉微笑(せそんねんげ、かしょうみしょう)」といいます。死が近くなったお釈迦さまが、ある説法の席で何もしゃべらず、一枝の蓮の花を拈って見せました。たくさんの弟子たちは何のことかわからず押し黙るなか、ひとり迦葉という人だけが合掌し微笑してうなずいたのです。それを見たお釈迦さまは迦葉が悟りを開いたことを知り、自分の継承者に決定したという故事です。ちょうどその場面を再現したように造られているのが五百羅漢寺の本堂です。2人の間には、ことばも文字もありません。これにより、不立文字(ふりゅうもんじ)や以心伝心(いしんでんしん)などの教えが始まってゆきます。つまり禅の元となった出来事です。

 「五百羅漢寺は禅宗ですか?」
 「よくお気づきになられましたね。確かにもともとは黄檗宗という禅宗のお寺でした。しかし昭和23年に黄檗宗から独立し、現在は宗派を持たない単立寺院(たんりつじいん)として、いわば宗派を超えたお寺です。」

 となります。
 さて、禅宗の歴史ですが・・・次回へ続く。


 仏教手習い草紙Vol,113   喜捨(きしゃ)

 お坊さんが托鉢しているところを見たことがあるでしょうか。街頭やお寺の入口あたりにいて、お金を入れてもらうための鉢を持っています。お坊さんの募金活動、と思うかもしれませんが、それは残念ながら違います。募金をお願いしているのではなく、あなたに「喜捨」という行為をさせるべく、お坊さんはそこにいるのです。

 喜捨を辞書で調べると、進んで金銭や物品を寺社や困っている人に差し出すこと、浄財を喜捨する、などと書かれています。なんだ、やっぱり募金と同じじゃないか、と思うかもしれませんので、もう少し言葉を足しましょう。

 喜捨の字をみると、喜んで捨てる、です。仏教にとって捨てるべきものは煩悩です。ただ何もしないでは煩悩がなくなることはありません。そのために修行を行うのです。煩悩のひとつに、お金や物に対して手に入れたいと思う欲や執着心があります。その心を抑えたり捨て去る実践すべき修行として施しをすること「布施」があるのです。金品を施すことでだけではなく、ボランティアで奉仕をしたり、人と和顔愛語で接することも布施です。しかしイヤイヤするのでは意味がありません。無償であり、見返りを求めず、誰かのために身をもって尽くすことを自分の喜びとする、それが喜捨の心です。つまり「喜捨とは、自分の中にある欲や執着心を取り除くため、金品などを寺社や困っている人にみずから差し出すこと」をいいます。

 さらに、喜捨するということは自分の煩悩を捨てる修行ができるのですから、喜捨は「する」のではなく「させてもらう」のです。かといって喜捨できる機会というのは、なかなか出会うことがありません。だから托鉢僧には、「喜捨をさせていただく機会を与えて下さってありがとうございます」という感謝の気持ちで鉢にお金を入れるべきなのです。

 お寺や神社にお参りする時、お賽銭をあげてから拝みますが、お賽銭は祈願に対する代金ではありません。「喜捨をさせていただきます。お役に立てて下さい。」という意味ですので覚えておいてください。


 仏教手習い草紙Vol,112   遍路(へんろ)

 五百羅漢寺では西国、坂東、秩父の観音霊場や四国霊場へ、檀信徒さまと巡礼していたことがあります。筆者もご一緒させていただきました。巡礼するお寺は札所(ふだしょ)と呼ばれ、それぞれ番号が振り分けられ、たいがいは若い番号から参拝してゆく旅行です。他にも不動霊場、地蔵霊場、薬師霊場、十三仏霊場、各宗祖遺蹟巡りなど全国各地に霊場があります。そんな中で四国霊場の巡礼だけが「遍路」と呼ばれ、巡礼者は「お遍路さん」といいます。今回は遍路です。

 遍路とは、四国に点在する阿波23土佐16伊予26讃岐23の計88ヵ所の札所を巡礼することをいいます。なぜ四国なのでしょうか。それはズバリ弘法大師空海(774- 835)ゆかりの土地だからです。空海は讃岐の生まれで、青年期に四国の山岳を修行の場として励み智慧を得たと自身で書かれています。大師信仰から弟子がその遺蹟を遍歴したのが四国霊場の始まりという説が有力です。八十八という数は、米の字による八十八や、見惑八十八使、三十五仏と五十三仏とを足した数、男厄四十二と女厄三十三と子厄十三を足した数、末広がりの縁起のいい数字を並べた数など、様々な説がありますがこれといって有力な説がない謎のままです。

 そして遍路ということばの由来も、実はわかっていません。四国はもともと辺地(へち・へじ)や辺土(へんど)と呼ばれていたため、辺地路、辺土路、辺道、辺礼、辺路などが充てられてゆき、さらに辺という字が僻地を想像させてしまうから遍に変え、最終的に遍路におさまったとされています。

 四国霊場は、室町時代に現型が認められていますが、もっぱら大師信仰の僧が修行手段として巡礼していました。空海没後800年以上経過した江戸時代、貞亭4年(1687)真念という僧によって「四国邊路道指南」なるガイドブックが発行されました。これにより一般庶民の参加が増え、現地の人々によるおもてなし「お接待」も手伝って発展していったのです。

 現在は道路、交通、宿泊などかなり整備され、マイカー、バイク、団体バスなどでも巡拝する人が多くなりました。とはいえ約1,500kmの長い道程、1日30 km歩いたとしても単純計算で50日、車でも10日はかかります。でも何回かに分けて行っても大丈夫。目的は観光でも写真でも歴史探索、芸術美術鑑賞、ドライブ・・・きっかけは何でもいいのです。信仰心さえ最初はいりません。ただし続けることが大事です。そして全部回りきり満願を果たしたとき、回り始めた頃と比べて少し成長している自分に出会えると思います。


 仏教手習い草紙Vol,111   仁王(におう)

 辞書には、仏教の護持をつかさどる神、お寺の山門や楼門の左右一対に立ち、二王、金剛力士ともいわれ、憤怒の相で1体は口を開き、1体は口を閉じることで阿吽を表す、仁王立ち、などと書いてあります。もう少し詳しく紹介してゆきましょう。

 もともとお釈迦さまを守護する執金剛神(しゅこんごうじん)という名前で、1体で祀られたことから始まりました。次にお釈迦さまだけでなく本堂を守るため堂門に配置されました。その時、左右一体ずつで二体となり名前も王と変化いたします。次にお寺全体を守るために寺門に配置され、現在の仁王が完成しました。

 口を開けている像は密迹(みっしゃく)金剛といい、通常向かって右側に安置し普段は「阿形像(あぎょうぞう)」と呼ばれます。左側には口を閉じている「吽形像(うんぎょうぞう)」で密迹力士、あるいは那羅延(ならえん)金剛といいます。髪の毛を髻に結い、上半身は裸で筋肉隆々の姿を見せつけ、まるで威嚇するように立っています。腰は裳で装い、裸足で、片手は固く握り締め、もう片手は力強く開いているか金剛杵(こんごうしょ)を持ちます。金剛杵とは棒状で両先に槍のような刃がついたインド神話上に出てくる武器で、主に阿形像が持つことになっています。

 有名なのは国宝でもある東大寺南大門の仁王像で、像高8.4メートルあり日本最大です。ちなみに国宝はあと2組しかありません。国宝が少ない理由として、山門の中とはいえ風雨にさらされてしまい、像の傷みが激しく、形を保つことが難しいことが原因となります。あと2つの国宝は「東大寺三月堂」と「興福寺国宝館」の仁王像ですが、こちらは堂内保存となっています。

 仏教は、仏さまや仏法を守護するために、バラモン教やヒンドゥー教などの神々を取り入れましたので、いろいろな神や天、王が登場することは、何ら不思議なことではありません。またその土地の風土に合わせるという性質もあるので、姿や形が変わることもあります。仁王も永い歴史を経て変化を遂げた守護神なのです。


 仏教手習い草紙Vol,110   

 らかんさん通信110号の「仏教手習い草紙」は、休載します。

 仏教手習い草紙Vol,109   護摩(ごま)

 護摩は、サンスクリット語「ホーマ」の音写語で、お寺のご本尊前(基本は不動明王)で、僧侶が護摩木や供物(五穀・油・香華など)を焚く儀式のことをいいます。焚き火みたい、と思う方があったらそれは大マチガイ。古代インドから続くとても神聖な儀式で、「護摩を焚く」というのもマチガイ。「護摩を修する」といいます。

 もともと、古代インド紀元前2000年頃にできたヴェーダ聖典に出ている、バラモン教の儀式です。太陽、月、雨、風、雷など自然現象や自然そのものを神とあがめ、その神々に供物を捧げ、豊作や健康、長寿、繁栄などを願い、あるいは感謝し祈っていました。ところが神々は空の上はるか彼方にいるとされていたため、地上の祭壇に供物を置いて捧げたとしても、天までは届かないだろうと考えたのです。はたして地上から天まで届くもの・・・それは煙でした。そこで戸外にキャンプファイヤーのようなものを作り、そこへ供物を投じたのです。供物は煙となって天へ上り、神々へ運ぼうとしたのが始まりです。

 そのホーマの儀式を、仏教が取り入れた形になります。しかし仏教では、供物を捧げると同時に、もうひとつ大切な意味を持たせました。それは浄化力です。不浄なものを浄める力、あるいは害あるものを無くす力です。浄化には水やお香、血、煙、塩、酒なども用いますが、唯一火だけが一瞬にして無にしてしまう力を持っています。仏教では、悟りに至ることを目的としますが、それには煩悩がどうしても邪魔でした。その煩悩を無くす方法として、ホーマの火を利用したのです。神聖なるホーマの炎は仏の智慧、真理、力を表し、木片は煩悩や災難を表し、木を炎に投げ入れて煩悩、災難を焼き消してしまおうと考えたのです。

 さらに護摩は修行の1つとしても発展しました。お経や真言を唱えながら煩悩の木を投げ入れ、それでも熱い炎の前に居続けるのはとても大変なこと。中でも比叡山で行われる、9日間不眠不休断食断水で10万枚の護摩木を焚き続ける、という別名「火あぶり地獄」と呼ばれる荒行は1番過酷だとされています。

 護摩は、弘法大師によって密教とともに日本へ伝えられました。現在では日本各地のとくに密教系のお寺で、願いごとを御護摩札に書いて焚く、いわゆる祈願のための護摩が行われています。遥か4000年も昔、古代インドから始まった神々に祈願するホーマが、意味も様式もほとんど変化せず、この日本において続いている事は、仏教や弘法大師のおかげとはいえど、まさに奇跡としかいいようがありません。


 仏教手習い草紙Vol,108   舎利(しゃり)

 「舎利」は、サンスクリット語シャリーラの音写で、肉体、死体、骨などの意味をもっています。日本においての舎利はお骨のことをいいますが、そのほとんどが仏舎利、お釈迦さまのお骨を指して使われています。

 お釈迦さまは亡くなった後、自身の遺言により火葬され、お骨は8か所(10か所とも)の寺院に納められました。それから200年後、仏教信仰心が篤かったアショーカ王は、7か所の仏舎利を発掘し、微量ずつ細分し、8万4千基の舎利塔を建て納められたのです。それは円すい形の仏塔で、ストゥーパと呼ばれ、現在の卒塔婆(そとば)のモデルであり語源でもあります。

 ところで、仏舎利が納められているという舎利塔が各地にあります。それが本物の仏舎利かどうかといえば、そのほとんどが仏舎利ではありません。インドやタイのストゥーパの前で供養した宝石や経本類を、仏舎利の代わりとして持ち帰り納めたものです。では本物の仏舎利はどこにあるのでしょうか。あったとしても、それは本当にお釈迦さまのものなのでしょうか。そもそもお釈迦さまは実在していたのでしょうか。その疑問に答えられるお寺が実は日本にあるのです。明治37年愛知県名古屋市に創建された比較的新しいお寺、覚王山日泰寺(かくおうざん にったいじ)です。

 お寺が創建される6年前、インドにおいて、英国人冒険家が1つの骨壷を発掘しました。そこに書かれている古代文字を解読した結果、何とお釈迦さまのお骨と判明したのです。これによりお釈迦さまが実在したことが証明されたのです。翌年英国からシャム国(現在のタイ王国)へ譲渡され、バンコクのナコンパトム寺院に安置されました。明治33年シャム国から日本へ仏舎利の一部が贈られ、明治37年仏舎利を奉安するためのお寺、覚王山日暹寺(にっしんじ)が創建されたのです。「覚王」とはお釈迦さまのこと、「日」は日本、「暹」はシャム国を表しています。昭和24年タイ王国への改名に合わせて、寺名も日泰寺に改められています。

 それともうひとつ、これと同じ本物の仏舎利が東京にもあります。日本とシャム国の少年団(現ボーイスカウト連盟)が友好の印として、昭和5年に仏舎利を分贈されました。昭和31年高尾山にタイ王国の仏塔パゴダをモチーフとした高さ18mの大宝塔が建てられています。名古屋は遠いといわれる方は、こちらへお参りされてはいかがでしょうか。


 仏教手習い草紙Vol,107   天竺(てんじく)

 現在、インドを漢字で表わすと印度ですが、身毒(しんどく)、天竺といわれた時代があり、身毒がもっとも古く漢時代には記載されているのが分かっています。唐時代にかけては天竺、以後には印度が一般化しました。これらはみな、インダス川に由来、音写したことばです。

 天竺に似ていますが、天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などと訳されたものもあります。「天」の字が多いのは、仏教発祥のインドを尊んでいるからだと考えられています。「竺」の字を辞書でみると、「篤」とほとんど同義で訓読みも同じ「あつ-い」です。しかしインドを表す天竺のイメージが強すぎたのか、現在ではインド、または仏教を指す意味が主となっています。竺土(じくど)はインド、竺学(じくがく)は仏教、竺典(じくてん)は仏教経典をそれぞれ指して言います。

 私たちは、今使われていない天竺ということばを、なぜか昔から知っています。その原因は、『西遊記』にあります。三蔵法師が孫悟空、猪八戒、沙悟浄らと様々な敵と戦いながら仏教経典を求め目指した地、それが天竺でした。三蔵法師とは中国の僧、玄奘(げんじょう・602- 664)のことで実在した人物です。彼は629年当時鎖国状態だった中国を出発し、砂漠越えやヒマラヤ越え、盗賊などに襲われるなど危険な旅をし、インドの協力もあって645年実際に中国へたくさんの経典を持ち帰ることができたのです。その17年間にわたる旅の記録が『大唐西域記』です。これがもととなって、仏教、道教、天人、仙人、神、龍、妖怪などを取り入れ、書かれた空想物語が西遊記です。16世紀の明の時代に書かれ、中国四大奇書にも数えられていますが、現在でもなお作者が誰なのかわかっていません。

 日本では原義から離れて、異国から渡来した珍しい物に対して、天竺を付けるという使い方も生まれ、ダリアをかつて天竺牡丹と呼んだりされました。

 筆者も子供の頃、夏目雅子、堺 正明、西田敏行などが出演したテレビドラマ西遊記を見ていました。最近では香取真吾、深津恵理らが演じるなど、西遊記はいつの時代も人気の物語ですが、インドではなく、歴史を重んじて「テンジク」を貫いてほしい、と感じています。


 仏教手習い草紙Vol,106   写経(しゃきょう)

 写経とは、ズバリ!仏教経典を書き写すことです。日本では、673年に奈良の川原寺で写経が行われた、という記録が「日本書記」に残っており、これが写経の始まりだと考えられています。今では全国各地のお寺で写経会が催され、修業の一環として、供養や所願成就を祈念して写経が行われています。

 写経の原点をたどっていくと、もともとは経典をコピーするために書き写したところから始まっています。印刷もなかった時代のこと、経典をコピーする唯一の手段が写経だった、というわけです。日本では、奈良時代になって全国に国分寺が置かれるなど、お寺や学僧の数が急激に増えてきました。寺や僧が増えれば、必然的に大量の経本が必要となります。そこで各地のお寺に納める経本作成のため、官営の写経所が設けられました。いわゆる経本量産工場です。そこでは写経する人、校正する人、表装する人などに分かれ、流れ作業的に経本が作られていったのです。

 さて写経のルーツはわかりましたが、一般の人々にまで広まった理由は他にあります。それは『妙法蓮華経』略して『法華経』に、
 「この経を受持し、読誦し、解説し、書写し、説の如く修行すれば、よく大願を成就す」
 とあります。経典を書き写すと願いがかなう、と示されているのです。これにより平安時代以降は、個人的なご利益、祈願成就のための写経が行われるようになりました。はじめは貴族や有力者から流行し、そして庶民にも広がり、さらにはお参りしたお寺に、写経を奉納する風習も生まれました。お寺を参拝したときに、納経帳を持っていくとご朱印を書いて頂けますが、これはもともと「納経」の言葉が示すとおり、写経をお寺に納めた証印のことなのです。

 五百羅漢寺も毎月15日(7月は休会)に写経会を行っています。ここではお経を唱え、墨をすり、小筆で字をなぞるようにして書いています。書くお経は「般若心経」です。全部で262文字という短いお経ですが、仏法の大意が述べられており、写経にはちょうどいい長さです。


 仏教手習い草紙Vol,105   比丘(びく)

 五百羅漢寺の本堂でながれている、お釈迦さまの説法を聴いたことがあるでしょうか。お釈迦さまが、仏教徒として生きる道を説いているのですが、話始めには必ず、
  「ビクたちよ、・・・・・」
と、話しかけています。弟子たちよ・・・という意味で使われていますが、ビクの正確な意味は、具足戒を受けた男性出家修行僧、のことを指しています。

 「乞う者」を意味するサンスクリット語の「ビクシュ」の音写語で、「比丘」と書きます。比丘となるには、基本条件として、20才以上であること、家族から出家の許可を得ていること、感染症の病気にかかっていないことなど23の項目があります。それを満たし、250項目の具足戒という戒律を受けると、晴れて比丘となることができます。比丘には、成績や経験などに応じて段階がありますが、一番トップのクラスが阿羅漢ということになります。

 ちなみに、出家して修行僧になることは7才からできます。出家し十戒を受けると「沙弥」(シャミ)と呼ばれ、正式ではありませんが修行僧となります。しかし儀式や会議などに参加することはできません。もちろん20才になるまで、比丘になることもありません。具足戒を受けないと、正式な僧とは認められないのです。それでも出家した修行僧ですから、生活は比丘と同じ、戒は受けていませんが、当然250の具足戒も守ることになります。

 女性の場合も同様に、比丘尼(ビクニ)、沙弥尼(シャミニ)があります。ただし男性より条件が厳しくなっています。比丘尼になる前には必ず2年間の見習い期間があること、500もの具足戒があること、生涯にわたりどんな比丘でも敬い続けることなどです。ちょっと差別かもしれない、と思うのは私だけではないはず。

 出家していない在家の人は、仏法僧(三宝)に帰依し、仏教の基本中の基本である五戒を受けることで仏教徒となります。男性は優婆塞(ウバソク)、女性は優婆夷(ウバイ)と呼ばれました。「仕える者」という意味をもちます。彼らには何の強制も義務もありません。しかし中には、僧団へ修行できる広大な土地を寄付する熱心な後援者もいました。でもそのおかげで、僧団は守られ発展を遂げたのも事実です。

 現在、五百羅漢寺オリジナルの「霊鷲山釈迦説法」というCDを本堂でながしています。法要をしている間は、説法を止めてしまいますので、ゆっくり聴きたい方は平日の参拝をお薦めします。(CD1枚1500円で販売中!って営業か?)


 仏教手習い草紙Vol,104   甘露(かんろ)

 お釈迦さまが生まれたとき、竜王が産湯として甘露の雨を降らしたという伝説があります。この甘露は字のとおり甘い露という意味ですが、他に「悟り」という意味で、甘露門、甘露の法、甘露王如来という使い方があります。これには、サンスクリット語から中国語への翻訳が関係しています。

 仏教の経典が、インドから中国に伝わると、まず中国語へと翻訳します。翻訳には二つの方法があり、ひとつは、発音をそのまま漢字にあてはめる音写訳と呼ばれる方法で、卒塔婆や阿弥陀、袈裟などがそうです。もうひとつは、そのことばがどういう意味をもっているのかを調べ、それと同じ意味あるいは似た意味をもつ中国語に置きかえる意訳という方法です。仏教経典にでてくる「甘露」は、サンスクリット語の「アムリタ」の意訳で、ちなみに音写訳は「阿密哩多」となります。

 「アムリタ」とは、インド神話にでてくる霊水をいいます。甘く香気があり、飲むとさまざまの苦悩を消し、寿命を延ばし、死者さえも復活させる力があるとされています。忉利天(とうりてん)という場所にあり、天人たちは常にこれを食し、いわば不老不死をもたらす霊薬のようなものだそうです。このアムリタの効用が、仏教の「悟り」に至る表現のイメージと重なり、アムリタが使われるようになったと考えられています。

 一方、中国古来の伝説で、天地の気が調和すると天が甘い露を降らすといわれ、王者が高徳で善政を行い、天下泰平になったときに甘露が降るとされています。アムリタの意訳として選ばれたのがこの甘露でした。よって甘露は、中国伝説とインド神話の両方の意味をもつ仏教語として日本に入ってきたのです。

 日本では、甘露煮、甘露水、甘露酒、カンロ飴(商品名)など、甘く味付けしたもの、美味であることの代名詞として使われることが多いようです。確かに甘くておいしいものを食べると、疲れが取れるし苦悩もなくなるような気がします。しかし今の日本にとって願うのは、甘露の降る時代が来ることなのですが・・・。


 仏教手習い草紙Vol,103   血脈(けちみゃく)

 字を見ると、なにか医学用語のように見えますが仏教語です。
 仏教は、お釈迦さまから弟子へ、またその弟子へ、またその弟子へと教えを伝授され今日に至ります。師から弟子へと正法を継承すること、また継承していった図を血脈といいます。まるで身体の血管が、相連なって絶えないことにたとえています。

 仏教は一子相伝のごとく、継承者が決められてきました。しかし時代が経つにつれ、末広がりに分派してゆきます。しかし元をたどってゆけば、最終的にお釈迦さまへ必ずたどりつくのです。

 禅宗の血脈では、お釈迦さまから始まり西天28祖・東土6祖を経て、日本禅宗の開祖へと続きます。開祖からは、各宗派の総本山寺院の歴代住職がトップ僧侶であり継承者ということになっています。

 現在、日本の天台宗では、総本山である比叡山延暦寺の住職が継承者で、天台宗の開祖「最澄」から数えて“第256世座主”になります。よって日本天台宗の血脈には、256人の名前が書かれています。さらに高野山真言宗総本山である金剛峯寺では、開祖「空海」から数えて“第412世座主”にもなります。当然全員が継承者です。

 これまで偉いお坊さんだけ関係していますが、禅宗とくに曹洞宗においては、一般人のお葬式の際に「血脈」が用いられています。が、戒名をつけることは、戒を授けて仏弟子になることを意味しています。もちろん生前授戒した場合で同じです。そのためお葬式で継承図の最後に、故人の名前が記された血脈が棺の中に入れられます。“あなたはこのような系統をたどって仏弟子となった”ということを証明しているのです。なんだか保証書みたいなものですね。

 教えを受け継ぎ、そして受け渡してきた人たちがいたからこそ、仏教が今ここに存続しているのです。この継承は、仏教や宗教に限らず、伝統あるものすべてに当てはまるものです。先人や先祖に感謝し、次の世代へつなぐことが私たちの使命であると思います。


 仏教手習い草紙Vol,102   南都六宗(なんとろくしゅう)

 日本の仏教には、たくさんの「宗派」があります。独立や分派によって独自に○○宗と名乗っている寺もありますが、基本的な伝統仏教として、十三宗五十六派に整理されています。法相、華厳、律、真言、天台、日蓮、浄土、浄土真、融通念仏、時、曹洞、臨済、黄檗の十三宗とその分派です。今回の題名である「南都六宗」とは、南都は奈良、平城京のことで、六宗は法相宗、華厳宗、律宗、成実宗、倶舎宗、三論宗で、日本最古の「宗派」となります。

 538年(552年とも)日本に仏教が伝わって以来、多くの経本や仏像などが日本に入ってきました。日本も数多くの寺院を建立し、仏教国としての道を歩みだします。奈良時代に入ると、日本から仏教先進国である中国へ渡って修行し教義を学ぶ者や、あるいは中国の高僧が日本に来て布教する数が増えました。

 そこに一つの転機がおとずれます。奈良の平城京近くの大寺らが、寺院ごとにひとつの教義を決めて研究を行い、若い僧たちに講義をしたり修行をさせる場をつくったのです。今でいう大学のようなもので、中国にならい「○○宗」と名乗り、「南都六宗」が成立しました。

  法相宗 - 開祖:道昭    寺院:興福寺・薬師寺  教義:唯識
  倶舎宗 - 開祖:道昭    寺院:東大寺・興福寺  教義:説一切有部
  三論宗 - 開祖:恵灌    寺院:東大寺南院    教義:中論・十二門論・百論
  成実宗 - 開祖:道蔵    寺院:元興寺・大安寺  教義:成実論
  華厳宗 - 開祖:良弁・審祥 寺院:東大寺      教義:華厳経
  律宗  - 開祖:鑑真    寺院:唐招提寺     教義:四分律

 次第に宗の所属寺院が増えてゆき、六宗は拡大していきました。当時法隆寺や京都清水寺も所属していた法相宗は、その勢いがとくに強く、奈良時代を代表する数多くの僧侶を輩出しています。布教しながら田畑、堀、池、橋、宿泊所などをつくる社会事業を行い、東大寺大仏造立に協力するなどの活躍で行基(ぎょうき)菩薩と呼ばれた名僧も法相宗の出身です。

 しかし平安時代になると、新しく開かれた真言宗や天台宗の人気に押され、南都六宗は一気に縮小していきます。成実宗は法相宗の付属として、倶舎宗は三論宗の付属として、さらにその三論宗は華厳宗の付属として吸収されました。こうして日本最初の六宗は三宗となり、吸収された三宗は学問上あるいは歴史上に、その名前を残すのみとなっています。


 仏教手習い草紙Vol,101   大師(だいし)

 大師とは「偉大なる師」という意味で、中国と日本において、基本的にそれぞれの朝廷や天皇から勅賜(ちょくし)の形で贈られる尊称の一つです。他には国師(こくし)、禅師(ぜんじ)があり、これらの多くは諡号(しごう)となります。諡号とは、貴人偉人の没後に、生前の事績評価に対して贈られる名前で、「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味しています。

 大師の起源はよくわかっていませんが、中国天台三祖の智顗(ちぎ)(538- 597)が「智者(ちしゃ)」の大師号を生前に贈られた記録があるので、起源はそれ以前と考えられています。

 日本では、天台宗開祖の最澄(さいちょう・767- 822)が、没後44年を経た貞観8年(866)清和天皇より「伝教(でんぎょう)」という大師号を贈られたのが最初となります。以来、天皇から大師を下賜されたのは全部で27名いますが、やはり「弘法(こうぼう)大師」が一番有名です。真言宗開祖である空海(くうかい・774- 835)は、延喜21年(921年)醍醐(だいご)天皇より「弘法利生(こうぼうりしょう・仏法を広め衆生に恵みを与える)の菩薩である」と称え「弘法」の大師号が贈られました。

 また、一番多く大師号を贈られたのが、浄土宗開祖の法然(ほうねん・1133-1212)です。1697年に「円光(えんこう)」、続いて1711年の500回忌にあわせ「東漸(とうぜん)」が贈られ、以降50回忌ごとに「慧成(えじょう)」「弘覚(こうかく)」「慈教(じきょう)」「明照(めいしょう)」「和順(わじゅん)」の計7つが贈られています。そして来年2011年1月25日が800回忌にあたり、平成天皇から8つめの大師号を賜ることが決定しています。

 人物だけでなく、通称○○大師というお寺も多数あります。その中でも金剛山(こうんごうさん)金乗院(きんじょういん)平間寺(へいけんじ)はとても有名です、といってもピンとこない方が多いと思いますが、初詣客全国3位をほこる川崎大師の本名です。西新井大師、観福寺大師堂とともに関東厄除け三大師といわれ、いずれも弘法大師が祀られています。

 もう一人「厄除け大師」で有名な人がいます。寺社などでよくみかける1番から100番のおみくじの創始者で、命日が1月3日であることから通称「元三(がんさん)大師」と呼ばれる比叡山延暦寺第18代座主「慈慧(じえ)大師 良源(りょうげん・912- 985)」です。こちらは佐野厄除け大師、足利厄除け大師、深大寺厄除け大師などで祀られています。

 日本で大師といえば、一般的に弘法大師空海を指します。その活躍は筆、寺院建立、仏像彫刻、温泉、湧き水など日本各地にその名を残し、歴史上の空海の足跡をはるかに超えています。故郷四国での仏道修行の遍歴は後に四国八十八所霊場となり、また高野山奥の院において禅定(ぜんじょう)に入ったまま今もなお生き続けているとされ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって「生き仏」的な崇拝を集めています。


 仏教手習い草紙Vol,100   和顔愛語(わげんあいご)

 「和顔愛語」このことばをインターネットで検索したところ、座右の銘や社訓、教訓にしている人が大勢いらっしゃるのです。仏教語だからこそ説得力があるのかもしれません。「和やかな顔と愛のあることば」をもって人に接するということは、よりあたたかい人間関係を築く上でとても大切なことだと思います。

 和顔愛語という言葉は『大無量寿経』の中で説かれています。そこには、阿弥陀仏がまだ仏ではなく、菩薩として修行をしていたとき、生活の心構えとして「嘘、偽り、こびへつらいがなく、常に人々に対して和顔愛語で接すること」とあります。ここで大事なのが、「常に」ということです。自分の衣食住さえ容易に得られないとき、あるいは相手が自分に敵意をもって迫ってきたとき、どんな時も、誰に対しても、自分が正直で和顔愛語で接することができるかどうか、が問題なのです。

 また仏教には実践すべき修行のひとつとして「布施」があります。布施とは金品を施すことを考えてしまいますが、金品はなくとも人に喜んでもらえる、また明るくさせてあげられる布施があります。無財の布施です。ボランティアのように奉仕することも大切ですが、誰にでもすぐ始められて、誰に対してもできるのが和顔愛語です。相手の立場をおもいやり、やわらかな表情でやさしい言葉で語りかけるのです。しかも布施の修行だから見返りを求めてはいけません。しかしほとんどの場合、相手の警戒心もなくなり、逆に和顔愛語でかえってくることでしょう。

 和顔愛語は布施であり修行です。しかしそれ以前に、人間社会に生きるひとりの人間として、生活する為の最も基本であると思います。無財無力の私にでもできる施しと思い、和顔愛語を心がけたいと思います。

 仏教手習い草紙Vol,99   散華(さんげ・さんか)

 お寺の法要中に、お坊さんが色とりどりの紙を撒くことがあります。五百羅漢寺でもお盆やお彼岸などの法要で撒いています。これは「散華」といい、名前のとおり花を散りばめること、あるいは散りばめた花を指したことばです。

 散華とは、お経を唱えながら花を散りばめて道場を清め、仏さまをお迎えしようとする作法で、「仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆(さんたん)するために天の神々や天女によって華を降らした」という故事にちなんで行われます。本来、本物の花びらが撒かれていましたが、現在はハスの花をかたどった色紙を用いています。濁った池の中から咲く可憐なハスの花は、インドで紀元前より聖なる花としてたたえられ、仏教の思想とも調和し多く使われています。お仏壇の仏像をよく見ると、仏さまは巨大なハスの花の台に乗っていることからも、大切な花だということがわかります。

 法事で撒かれる散華は、一般的に何十枚程度ですが、総本山、大本山といった大きなお寺で、たくさんの僧侶が集まるような大法要のときには、山門の上や屋根のような高い場所から、それこそ何千枚も撒きます。キラキラと日の光に反射し輝きながら舞い落ちるその風景は、まさに「荘厳浄土」ということばでしか表すことができません。

 また散華はお寺によって多種多様の模様があり、美術品としてや思い出のひとつとして収集している人も少なくありません。その寺独自でデザインされたり、著名な画家や書家に書いていただいたり、あるいは鑑賞用のためだけに作られた金粉銀粉をあしらった豪華な散華もあるほどです。最近ではドラえもんやアンパンマンなどの絵もあるようですが、やはり極楽浄土の様子を描いたものが多いでしょう。

 現在、五百羅漢寺の寺務所前の廊下には、散華が飾られています。お檀家さまの一人が観音霊場を巡礼し、各お寺で記念にいただいた散華を大事に保管、見事に百観音霊場満願した証として、額に飾り奉納されたものです。ちなみに法要中に撒かれた散華は、持ち帰っていいことになっています。極楽浄土から持ち帰ったお守りとしていかがでしょうか。

 仏教手習い草紙Vol,98   不動明王(ふどうみょうおう)

 仏教には「明王」と呼ばれる守護神がいます。五大明王や八大明王の他に、孔雀明王や愛染明王などが有名です。その中でも中心的存在なのが「不動明王」です。梵名「アチャラ・ナータ」といいアチャラは「動かない」、ナータは「王、守護者」を意味し、不動尊、無動明王などとも漢訳されています。

 不動明王の特徴は、やはり何といってもあの恐ろしいお姿です。右手には魔を退散させ煩悩を断ち切るという利剣を持ち、左手には羂索という悪を縛り上げ人々を救い上げるひもを持っています。左目は閉じ、右目はにらみつけるように見開き、口は「へ」の字にして牙をむき出し、下の歯で上唇をかんでいます。足下には磐石という堅くて大きな岩に乗り、火炎の中に住み、煩悩を焼きつくすという伝説の火の鳥カルラを模した迦楼羅焔(カルラえん)を背負っています。

 実は不動明王は、大日如来の使者あるいは化身であるとお経に説かれています。仏法に従わない者や仏法に敵対する者には、ときには脅すように、ときには力ずくで教え諭してゆきます。しかしそのお心は、人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちております。ちょうど悪いことをした子をしかる親のごとく、正しい道へと導こうとしているのです。そのためか、地元の人々からは「お不動さん」と親しみをこめて呼ばれています。

 また昔から不動明王へお参りしたご利益は大きいとされています。厄難を滅し大願を成就する威力がとても強く、とくに炎の神力を以て祈願を行う護摩を焚く法要には、たくさんの人々がお参りされます。

 仏教手習い草紙Vol,97   正念場(しょうねんば)

 その人の真価を問われる大事な場面、あるいは重要な局面のことを正念場といいます。このままいつもの流れであれば、正念場は仏教語です、というところですが、今回はそう言い切れません。キーワードは「正念」です。

 お釈迦さまは、悟りへ至るための基本的な生活の教えとして、八正道(はっしょうどう)を説かれました。それは、

 正見(しょうけん) 正しく見ること
 正思(しょうし)  正しく考えること
 正語(しょうご)  正しい言葉を使うこと
 正行(しょうぎょう)正しい行いをすること
 正命(しょうみょう)正しい使命をもつこと
 正精進(しょうしょうじん) 正しい努力をすること
 正念(しょうねん) 正しい心を持つこと
 正定(しょうじょう)正しい状態を保つこと

の八つです。ここでいう「正しい」とは、損得を考えるような私たちの判断を超えて、仏教をよりどころとした真理を基準としています。よって正念とは仏教語であり、邪念雑念を払って悟りへ至ろうと常に思い続けることをいいます。

 さて話をもどして正念場ですが、もし仏教語の正念からきたことばだとすると、一瞬一瞬が常に正念場でなければならないはずで、現在使われているような、たくさんある中でここぞという大事な場面をさす意味とは少し異なります。

 これとは別に歌舞伎や浄瑠璃用語で、性根場(しょうねば)ということばがあります。辞書で見ると、主人公がその役を発揮させる最も重要な場面、正念場ともいう、とあるのです。

 !!!!!!

 そうです。正念場は歌舞伎から由来しているのです。性根場からどのように正念場へ変化したかはわかりませんが、字だけが仏教語という不思議な現象をもつ珍しいことばなのです。

 仏教手習い草紙Vol,96   菩提樹(ぼだいじゅ)

 十二月八日、明星輝く夜明け前のこと。インド北東部「ガヤ」の町から南へ十キロほど下ったあたり、ネーランジャヤー河(尼蓮禅河・にれんぜんが)の岸にそびえたつピッパラという木の下で、一人の修行者が「ボーディ」(菩提=悟り)を得て「ブッダ」となられました。そうです、お釈迦さまです。これゆえに、この土地は「ブッダ・ガヤ」と名付けられ、ピッパラ樹はボーディ(菩提樹)と名付けられました。

 サンスクリット語でピッパラと呼ばれたこの木は、学名Ficus religiosaインド原産クワ科イチジク属の植物で和名「インドボダイジュ」といいます。成道(悟り)の木として、誕生のムユウジュ(無憂樹)、入滅のサラの木(沙羅双樹)とともに、仏教の三大聖樹とされています。和名が「ボダイジュ」ではないのは、日本に入ってきた時、すでにボダイジュという和名を持つ植物があったからです。その植物は中国原産シナノキ科シナノキ属の落葉高木で、日本の寺院などで菩提樹として植えられている木は、一部を除きほとんどがこの木です。宋に修行に渡った日本臨済宗の祖・栄西がその種子を持ち帰って植えたものが広まってゆきました。残念ながらインドボダイジュは、日本においては菩提樹であってボダイジュでなく、しかも熱帯性のため日本の屋外では越冬できないようです。

 また菩提樹の数珠というのがあります。これもまぎらわしいのですが、インドボダイジュの種子は二ミリ程度の小粒でしかなく、とうてい数珠にできるような代物ではありません。菩提樹の数珠として売られているものは、インドジュズノキやジュズボダイジュという木の種子で、星月菩提樹、天竺菩提樹、金剛菩提樹、鳳眼菩提樹などが有名です。

 お釈迦さまが成道された時の菩提樹は、五世紀頃、仏教弾圧に見舞われ切り落とされてしまいました。現在同じ場所に植えられているのは、その菩提樹の孫となる木をスリランカから移植されたものです。

 仏教手習い草紙Vol,95   鎮護国家(ちんごこっか)

 鎮護国家とは、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策をいいます。日本に伝わったお経の多くは、災難を取り除き幸福を招くとしています。そのためお経のマジカルパワーを取り入れ、仏教を国家の守護・安定させる基盤にと考えたのです。とくに「妙法蓮華経(法華経)」「金光明最勝王経」「仁王般若経」の3つは鎮護国家の三部経と呼ばれ、「法華会」「最勝会」「仁王会」が天皇の名において行われる勅会として定期的に営まれ、国家や皇室の安泰を祈願されました。

 仏教は五三八年(あるいは五五二年とも)欽明天皇のときに伝来し、仏教を取り入れようとする蘇我氏と反対する物部氏が対立、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着します。その後、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官庁的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治が行われました。

 奈良時代には、鎮護国家の思想のもと諸国に国分寺が設置され、総国分寺となる東大寺の大仏建立、鑑真招来による律宗の導入、平安時代には天台宗や真言宗、鎌倉時代には浄土真宗や日蓮宗などが誕生し導入されていきました。その一方で、政府や朝廷にかかわる僧や寺、宗派の権力が強大していたのも事実で、高僧の流罪の刑や、織田信長による比叡山焼き討ちという有名な事件もありました。

 このようにわが国の仏教は鎮護国家の仏教としてスタートを切ったため、時代による差はあるとはいえ、つい最近まで世俗の権力の中に仏教が存在していたのです。このことは、わが国の仏教史を考える上で、見落とすことのできない重要なポイントとなります。

 仏教手習い草紙Vol,94   初転法輪(しょてんぼうりん)

 インドのベナレス郊外にあるサールナートは、お釈迦さまが初転法輪を行った場所で、生誕地のルンビニー、成道地(悟りを開いた)のブッダガヤ、涅槃地のクシナガラと並び、仏教の四大聖地の一つに挙げられ、現在も仏跡巡拝者で賑わっています。

 「初転法輪」の輪という字は、チャクラのことをいいます。チャクラとは古代インドで用いられた武器の一種です。真ん中に穴のあいた金属製の円盤で外側に刃が付けられており、回転させながら投げて相手を斬るという、いわば円盤型手裏剣といったところでしょうか。法は正しい教えのこと、よって「法輪」は正しい教えを武器として、「相手の心の迷いや煩悩を斬って取り除くことができる正しい教え」を意味しています。転は転ずること、「転法輪」とは法輪を相手に投げることにより、「正しい教えを伝え、迷いや煩悩を取り除き、人々を教化すること」をいいます。簡単にいうと説法、伝法、布教といった意味です。

 すなわち初転法輪とは、初めて転法輪をしたこと、つまり初説法を行ったことをいいます。とくに仏教を説いた偉大な功績により、現在では「初転法輪」ということば自体が、お釈迦さまだけに使われることばとなっています。

 お釈迦さまは悟りを開き、仏陀(真理に目ざめた人、覚者)となられた後、一生涯をかけて仏教を人々の救済のために布教を行いました。その第一歩として、かつて修行を共にした五人の仲間に対し、鹿がたくさんいる草原(鹿野苑…現在のサールナート)において、チベット暦の6月4日(新暦の8月上旬頃)初めて教義を説いたとされています。

 現在サールナートには初転法輪寺があります。その中には日本人の野生司香雪が描いた釈尊一代記の壁画や、お釈迦さまと五人の弟子、法輪、鹿が配置された五世紀頃の作と考えられる仏像があります。

 仏教手習い草紙Vol,93   七難(しちなん)

 七難(しちなん)八苦(はっく)ということばがあります。七難と八苦、どちらも仏教語というこのことばは、さまざまな苦難という意味で、試練や障害などを乗り越えるときに使われます。八苦とは四苦八苦のこと、ですが今回は細かい説明を省略いたします。「七難」については、複数の経典によって説かれていますが、その内容が異なっているため、ここでは『観音経(かんのんぎょう)』と『仁王(におう)経(きょう)』を紹介いたします。

 『観音経』の七難とは、①火難 ②水難 ③風難 ④刀杖難(武器)⑤鬼難(悪霊)⑥枷鎖難(拘束)⑦怨賊難(犯罪)。

 『仁王経』の七難とは、①日月集塵難(太陽や月の異変)②星宿失度難(星の異変)③災火難 ④雨水難 ⑤憩風難 ⑥亢陽難(日照り)⑦悪賊難(犯罪)。

 火や水や風の難、悪霊、犯罪、太陽や月や星の異変、日照りなどがあげられていて、他の経典では疫病、日食月食、侵略、内乱などもあります。難とは「わざわい」です。わざわいは、人を不幸にさせるものです。避けられるものなら避けるべきシロモノです。ところがわざわいは突如として降りかかります。

 そこで救いなのが、どの経典も仏法の力によって七難を消滅させることがきる、という共通点があります。『仁王経』では、「七難即滅七福即生」として、お祓いをすると「七難が消滅され、七福がもたらされる」と説明しています。さらにこの句から生まれたのが、わざわいとは縁のない「七福神」というのが有力な説です。

 「色の白いは七難かくす」ということわざがあります。女性は肌が白ければ多少の欠点は気にならない、という意味ですが、ここで使われている七難は、七つのわざわいではなく、多少の難点欠点であって、仏教とは無関係とされています。

 仏教手習い草紙Vol,92   法爾自然(ほうにじねん)

 聖僧のほまれ高い比叡山西塔黒谷の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)上人は、十八歳になる弟子の少年僧に並々ならぬ決意を感じ取り、「少年の身で早くも菩提心(悟りを求める心)を起こした。まことにこれは法爾自然の僧である」とほめたたえ、法爾自然の最初と最後の字をとって少年に「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」という法名を与えました。そう、これが浄土宗の開祖である法然上人の名前の由来です。

 法爾自然は、法爾と自然の二つのことばから成り立っています。このうち自然は一般によく使われていますが、法爾ということばは一般に使われていません。法爾とは法に爾(しか)り、つまり「法則にのっとって、そのようになっていること」です。自然は「しぜん」というと、山川海草木花雨風などがすぐ頭の中に浮かんできます。これは明治時代に英語のネイチャー(nature)の翻訳語として「自然」が用いられたことによります。もともと「じねん」といいます。自(おのずか)ら然り、つまり「おのずからそのようになっていること」です。

 法爾と自然、どちらも同じような意味をもつことばを併せ持った法爾自然とは、意図的な作用が働いていない万物大自然のありのままの姿、をいいます。

 落ち葉は気負いもなく、吹く風を恨まず、葉としての生命を全うして地に落ちてゆきます。これが自然です。人間も同じように自然の一部です。しかしわれわれ人間は、自然を意図的に自分たちの都合のいいように改造してゆき、その結果、地球の温暖化や砂漠化、環境汚染などさまざまな問題を引き起こしてしまいました。未来へ生きる子供のため、これから生まれてくる生きとし生けるもののために、法爾自然の大切さを認識し、今できることを考え、行動してゆかなければならないのです。

 仏教手習い草紙Vol,91   不退転(ふたいてん)

 政治家や相撲の関取が、「不退転の決意で・・・」と言うのを時々耳にします。志を固く保持し、決して屈しない決意という意味で使われていますが、これは仏教語としての本来の意味からは、少し離れてしまった感じになります。

 不退転は、サンスクリット語の「アヴァイヴァルティカ」の訳で、不退、無退とも訳されています。仏教でいうところの「退転」あるいは「退」とは、「仏道修行を怠ったために、初めのほうや悪いほうに後退すること」です。よって不退転の意味は、怠らずに修行し後退しないこと、と考えられますが、実はそうではありません。怠らずに修行したことによって入ることのできた、「もはや後退することがなくなった境地」を指したことばなのです。

 仏道修行の過程で、初めのうちは身につかなかったりふらついたりするものですが、キチンと修行していくと、ある時点からはふたたび後退することのない境地に達するというのです。これを不退転、あるいは不退の位、不退転の境地などといいます。ある時点とはどの段階を指すのかは経典によって様々ですが、かなり上級の地位のようです。

 私たちの身近にも、ちょっとした不退転の境地が隠れています。スポーツなどを例にとっても、基本をマスターしていないうちに、サボったりやめたりするとすぐに忘れてしまいますが、基本をきちんとマスターしていたならば、長い間やっていなくても体が覚えていて、自然と体が動いたりするものです。不退転です。

 仏教語は時として、悪い意味に転じていくことが多い中、不退転は、屈しない、常に努力を怠らない、熱心に励むなど、いい意味のまま変化したことばといえます。

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